2007年4月25日 (水)

社内ベンチャー制度

マイボイスコムがCRC総合研究所の社内ベンチャー制度でできたことは皆さんご存知ですよね。これにも実は面白いエピソードがあるので裏話を教えちゃいます。

あるヘッドハンティングからお誘いが来たことは話しましたよね。この時はすごく悩んでしまって3ヶ月位うだうだしてました。先方の役員が1席設けてくれてご馳走にもなりましたが踏み切れません。ヘッドハンティング会社には「興味があるのですがもう少し待ってください。」とずっと答えていました。そんな時に某商社から来ていた経営企画部長の井上さんから呼び出されました。

応接室で井上部長が「おい高井さん、何か俺に隠していることないか?」と言います。特に親しい間柄でもありませんし、かなり偉くて目上の方でしたので「特にないですが・・、何か?」と答えると、「某シンクタンクからヘッドハンティングされているよね」と言うんです。もちろん会社には内緒でしたので何故部長が知っているのか分かりません。突然の指摘でかなり動揺してしまいました。後で知ったことですが、某シンクタンクが同業他社から自分を抜くので、CRCの社長に仁義を切ったというんです。まだ正式に返事をした訳でもないのに、ヘッドハンティング会社がミスリードをしてしまったみたいです。今から考えるとしびれを切らしてリークしたのかもしれません。いづれにしても会社に内緒がばれました。こういう話はどこからかばれてしまうものみたいです。

社長は井上部長に「絶対に止めろ」という指示をしたそうで、井上さんが交渉役になりました。「そんなに今のCRCはいやか」、「いやです。自分が主体的に働ける仕事がなくなったCRCに何の魅力も感じません」、「仕事もなく毎日会社で本を読むような生活はうんざりです」、「だいたい今の会社はおかしい・・・」、この際とばかりにかなり失礼で身勝手なことを言っていたと思います。「それならお前の好きな部署に異動させてやる。どこか希望はないか」、「行きたい部署がないからお誘いが来た時にお会いしたんです。理解して下さい」、というようなやり取りが続きました。

普通でしたらここで終わりですよね。でも井上部長はハードネゴシエーターで、とても人間的にも魅力がある良い方でしたので、何回か話をしていくうちに私も冷静になって本音ベースで話をしていました。「実は某総研のお誘いは迷っています。あるビジネスプランコンテストで賞が取れたので、そのモデルを実行したらどうかなども考えているんです。」ということを正直に話しました。

井上部長の反応は意外でした。どんな内容だというので企画書を見せました。「おもろいやないか、ITにも関係するし、これをCRCでやらせてやるから残れよ」、「CRCでは母体が大きすぎて、CRCのコストとスピードでは無理です」、「では子会社を作ってやるからそこでやるのはどうだ」、「井上部長、申し訳ないのですがもう子会社で働くのは空しいので嫌なんです」、「じゃ社内ベンチャー制度を作ってやる。良い制度を作ってやるからそれでやったらどうか」、「社内ベンチャー制度って何ですか・・??」、そんな流れで社内ベンチャー制度ができ、マイボイスコムができる切っ掛けができました。

こうやってみると人生って分からないですよね。一生懸命やっていると誰かが力を貸してくれて、正直な気持ちで熱心に話をしをすると色々な道が開けてくるようです。井上さんは現在ファミリマートの常務で、アメリカ社長として活躍しています。井上さんの恩に答えるためにも、マイボイスコムをしっかりとした会社に育てたいと思っています。

2007年4月24日 (火)

アタッカーズスクール

ビジネスプランコンテストにで受賞して、起業した大物企業家にもお会いして、自分で小さな会社をやる生き方というものを始めて考えるようになりました。でもずっと15年間も会社で働いていて、どうやって会社が作れるのか、会社を作るには何が必要かなんて全く分かりませんよね。それで起業ということを少し勉強することにしました。

本当に会社が暇で9時5時の本読み生活で良かったです。本も数冊読みましたが、自腹を叩いていくつものセミナーやスクールに通いました。多摩大学の「ベンチャー経営講座」や大前研一さんの「アタッカーズスクール」など関係しそうなところに片っ端から行ってみました。1番印象に残っているのは大前研一さんの「アタッカーズスクール」でした。週に1回平日の夜に2時間位の公演が13回ほどありました。20万円の出費は痛かったですが必要な自己投資だと割り切って申し込み全会出席しました。最初と最後は大前さん自身の講演やブレストがありましたが、残る13回は実際に会社を立ち上げて成功している起業家の講演が中心でした。

インテリジェンスの宇野社長、ミスミの田口社長、アスキーの西社長、はせがわの長谷川社長、NOVAの猿橋社長、ベッコアメの尾崎社長、ハウステンボスの神近社長、ディーブレイン出縄社長などから起業の経緯や会社経営の実態をお聞かせいただき、その後で色々と質疑応答をしました。皆さん個性的で魅力的な方ばかりで話も非常に面白くあっという間の2時間でした。実際にやった人の話を伺うことは一番役立つ情報でした。それも10名の方それぞれに違った経緯や動機、経営への思いや価値観で会社を起こして経営をしている、それらの沢山の経験者の生き方のケーススタディが出来ました。そして「皆すごい人達だなあ」と思う反面、「皆色々と迷って苦しんで生きている自分と同じような人間なんだ」と妙に安心しました。

ここに参加してよかったのは「何かやりたい!」と思っている受講者同士の交流が図れたことでした。皆自腹を切って忙しい時間を割いて集まっている「やまっけの多い若者達」でしたので大変面白い人間ばかりでした。誰が誘うわけでもなく毎回講演のあとで安い居酒屋に集まり、2時間の復習が始まります。毎週帰るのは夜中の12時を越えていました。体は疲れますが心は元気を取り戻してきたようでした。

何かに悩んでどうしたら良いか分からなくなったら、まず動いてみるのが良いのかもしれません。そして経験者の話を聞いているうちに、何となく自の中に地図が描けてきて冷静に考えられるようになります。私はアタッカーズスクールに行って沢山の経験者の話を聞き、面白い仲間たちと飲んで騒いでいるうちに、「会社を作る」ということが少し身近に感じられるようになりました。

2007年4月23日 (月)

ビジネスプランコンテスト

日経新聞で社団法人ニュービジネス協議会の「ビジネスプランコンテスト」の募集案内を見つけました。とても小さな記事でしたが何故か気になって切り抜いていました。

この頃はまだインターネットもあまり普及してなくて、ネット人口は300万人位だったのではないでしょうか。ただ、米国ではインターネットがマーケティングに使われ始めたと聞いていて、「ネットゲイン」という本を読みました。そこにはネット上のコミュニティが将来価値を生むだろうと書いてあり、VoteLinkというサイトでネット上で世論投票しているというので投票したらその場で投票結果が表示されました。何かネットって面白いな、これって何か新しいサービスが作れるのではないか、そんなことを感じていました。

このアイディアで事業プランを作り、試しに「ビジネスプランコンテスト」に応募してみようかな。どうせ5時に仕事が終わって帰れるありがたい身分ですから、3週間の提出期限でも何とかなるだろう。そう思って毎日自宅に帰ってから漠然と考えていたイメージをもとに事業計画を作りました。「ネットフォーカスグループの組織化による情報サービス事業 ~生活者と組織のコワークを促進するネットワークの形成を目指して~」、そんなタイトルの事業企画書を作成して提出期限ぎりぎりに郵送しました。

書類審査が通り、審査員7人の前でプレゼンをしました。そして運よく100人の応募者から選ばれて「優秀賞」を取りました。企画書作成やプレゼンは仕事で慣れていたので少しはまともに見えたのかもしれません。その後、東京国際フォーラムでの表彰式がありトロフィーと20万円の賞金をいただきました。この表彰式にはプランコンテストの受賞者の他に、10人位の起業家も表彰を受けてました。アントレプレナー大賞の受賞者がCSKの大川社長(故人)から賞状をもらい、誇らしげにスピーチをしていました。へえこの人達って会社を作ったんだ、起業家ってアントレプレナーって言うんだ・・・、ちょっと別な世界を覗いている感じでした。

その後のパーティはとても楽しかったです。今は亡くなってしまったマクドナルドの藤田田(でん)社長、ユニチャームの高原社長、ドトールの鳥羽社長などいつも雑誌で見ていた経営者と直接話ができました。皆さん普通のオジサンなのに何かかっこよく、そして皆さん偉ぶらずに私の拙い話も聞いてくれました。特に印象的だったのは藤田社長、「ユダヤの商法」等の著書は何冊か読んでいたので、是非話したいと思い、すごい迫力に圧倒されてびくびくしながら話しかけました。

学生部門で受賞した野村さんという慶應の大学院生と3人で話をしていたら、「君は慶應か、俺は東大法学部に行ったのは失敗だったよ。同級生はバカな官僚ばかりでつまらない。本当に優秀なやつはビジネスをやるべきだ。僕が慶應に行っていたらもっと違った人生になったかもしれないなあ。」そんなことを仰ったと思います。「でも藤田社長にとってもっと面白い人生の選択ってありましたか?」と聞くと、「うーん、やっぱり同じことをやっていただろうなあ」といって豪快に笑っていました。今でも藤田社長の名刺は大切に持っています。ただの1枚の名刺ですが思い出のつまった大切なものになりました。

後悔してない人生って素晴らしいですよね。そして凄く偉いのに偉ぶらない人、そんな大きな人間性を持つ企業家にお会いできて幸せな時間でした。たまたま見つけたプランコンテストでの受賞と、大企業家とのほんの短い会話が乾いていた自分の心の刺激になりました。世の中にはすごい人達がいるなあ。会社を作るという人生もあるんだ。そして、このビジネスプランもプロが賞をくれたのだから、もしかすると目があるのではないか、そんなことを考え始めました。97年11月のことです。

この時のビジネスプランは会社に置いてあります。久しぶりに読み返してみたら、今のマイボイスコムの経営理念とほぼ同じことが書いてあり、今やっているサービスと同じ内容が書いてありました。やっぱり事業計画書って大切なのかもしれません。その時のビジネスプランが見たい方はいつでもお見せしますので来て下さい。

2007年4月20日 (金)

ITコンサルの仕事

シンクタンク部門がお取り潰しになって、新設されたITコンサル事業室という部署の部長補佐になりました。自分達の部署とシステム部署から10名ほどが集められて、ITのコンサルをやれと言います。「ITのコンサル?」何をしたら良いか分かりません。親会社から来た室長に聞きました。鉄鋼一筋30年の彼はもっと分かっていませんでした。「まず皆で勉強しよう!」というので、毎日本を読みました。

自分で主体的に取組める仕事がないことは大変に辛いことです。毎日本を読んで、セミナーに出て、9時~5時で帰れるのですが毎日ぐったり疲れます。そしていつも風邪をひいていました。システムを開発したこともない自分が、ITのコンサルをやっても絶対に1流にはなれないなあ。こんなことをやっていたら人生の無駄になるなあ。そんなことを考え始めました。

こういう時には何かの波動が出るのかもしれません。もうこれはもうだめだと感じた頃に2つの出来事がありました。1つはヘッドハンティング会社から某大手シンクタンクのマーケティング課長のお誘いが来たことで、もう1つは社団法人ニュービジネス協議会が「ビジネスプランコンテスト」をやるという日経の記事を見つけたことです。

シンクタンクの話はとんとん拍子に話が進みました。これまでやってきたマーケティングリサーチや産業調査の仕事ですし、会社の都合で断わったクライアントの仕事も是非取ってほしいといいます。これまでの経験とネットワークが活かせますのでやれる自信はありました。銀行系ということで待遇も良く社会的な知名度や信用もありますし、普通に考えたらすごくタイムリーでラッキーなお誘いだったのかもしれません。

でもこの話は3ヶ月も迷った末に断りました。この仕事は好きですしやれる自信もありましたが、社員のほとんどが親会社の銀行員で、会社の雰囲気も銀行そのものという空気に違和感がありました。そして、ここはりっぱな会社で優秀な社員も沢山いましたが、やっぱり大企業の子会社ですから、プロパーで中途採用の自分がどんなに頑張っても主流にはなれない、また同じような空しさを感じる時が来ると思ったら踏み込めませんでした。

面白い話でこのシンクタンクも今は当社のクライアントです。その時に相談した相手が先方の担当者だったりしています。世の中繋がっていて無駄なことは少ないようです。

もう1つの「ビジネスプランコンテスト」は、マイボイスコムが出来る切っ掛けにもなっているので次の機会にします。ちょっと過去話が長すぎますかね。もったいぶってすみません。

2007年4月19日 (木)

会社の変化とリストラ

そんなこんなでリサーチの仕事を13年やりました。色々な案件をこなすことで知識や経験の引き出しも増え、信頼してもらえるクライアントもできて自信も着いてきました。継続は力なりは本当だと思います。

ただ、シンクタンク部門は大きな赤字になっていました。シンクタンクの仕事は労働集約であまり効率的ではなく、千人以上の大会社の販管費を賄えるほど収益性がなかったという環境要因もありますが、1番の原因は経営のやり方だったと思います。業務内容の分からない本部長や部長が親会社から来て、50人ほどだった社員を120人まで一気に増やしました。それもリサーチやコンサルが未経験の年配者も多く、ピークには本部内に顧問が7人もいました。そして、いつの間にか毎年「ン億円」もの赤字を生むようになっていました。

自分としては一生懸命に働いていましたし、自分の案件は採算も取っていましたので、本部の赤字は別世界のことだと思っていました。私も現場から見ていて「こんなことしてたら赤字になるのは当たり前だよな」くらいに考えていました。ただ、社名も総合研究所ですしグループの位置づけもあるので、赤字でもシンクタンク部門がなくなることはないと思っていました。巨額な赤字なのに現場は全く危機感を持っていませんでした。

しかし、新しい社長が親会社から来ると流れは一変しました。「この赤字は一体何だ!」、「シンクタンクは商売にならないじゃないか!」ということになり、3年間の猶予期間の後にシンクタンク部門は廃止になり、社名もCRCソリューションズに変わりました。やっと築いてきたお客様からの仕事も断わらなくてはなりません。優秀な社員から辞めて行きました。また一緒に働いていた社員が何人もリストラになりました。ただし親会社から来た社員や経営者はリストラの対象になりません。会社って何だろう、子会社って空しい存在だなあ、そんなことを実感する日々でした。

この時はこの社長を何て身勝手な人なのか、沢山の社員の人生を狂わせて良いのか、そんな風に考えていました。ただ、今から考えるとあの時の社長は、民間企業の責任者として経営課題に真剣に取組んでいたのだと思います。「3年で赤字をゼロにする」という当たり前の目標に、危機感を持って取組めなかった組織にこそ問題があったのだと思います。企業にとって赤字は「悪」です。悪を退治できない組織に未来はありません。

会社を作ったからには継続しなくてはいけません。継続し成長し発展しなければ社員を幸せにすることも、取引先や株主等のステークホルダーに対する責任も果たすこともできません。事業や会社の業績に対して主体的な取組みを失った組織がどうなるのか、赤字がどれだけ多くの社員を不幸にするのか身を持って体験できたことは、今の私にとって貴重な財産になりました。

マイボイスコムはまだ歴史も短く、財産も少ない会社です。この船に乗った社員の1部でも会社の業績と自分は関係ないと思い、赤字でもしょうがないと思った瞬間から船は沈み始めます。私はこの会社の船長として、絶対にあの時のシンクタンク部門のようにはないように頑張ろうと心に誓っています。会社が成長し発展できれば、仕事の可能性も広がり待遇も良くすることができます。当社の社員には会社の事業と業績に関心を持って、主体的に仕事に取組んでほしいと思います。

2007年4月18日 (水)

ミャンマー国連調査

CRC総合研究所で10年以上マーケティング調査や産業調査をやりましたので、まだまだ紹介したい事例が沢山あります。ただいつまでも過去の話していても始まらないので、もう1件で終わりにしたいと思います。

これは私の自慢なんですが、1度だけ国連パスポートで海外調査に行ったことがあります。調査国は軍事政権下のミャンマーで、経済開発のマスタープランを作るという仕事でした。その当時にCRCの社長だった高原さんは陸軍士官学校卒の元軍人で、ミャンマーで終戦を迎えた方でした。高原社長は山崎豊子の不毛地帯にも出てくる偉い方で、何とかミャンマーの力になりたいという思いから始まったプロジェクトでした。

それが何故国連工業開発機構(UNIDO)の案件になったかは良く分かりませんが、自分も調査団の1員としてミャンマーに行くことになりました。アジア経済研究所でミャンマーが専門の桐生先生が団長で、広島大学の開発経済の山下教授、竹内教授と、何故かCRCにいたケビン・ショート博士というとっても優しい米国人が主なメンバーでした。私ともう1名の社員が事務局で、フライトや現地での車や食事の手配などの雑用をやりました。ミャンマー経済をどうやって発展させるなんて私には全く分かりませんので、鞄持ちに徹して、先生たちが働きやすいように気を配って段取りするコンパの幹事みたいな仕事でした。ああそれで幹事が得意な自分がこのプロジェクトに入れられたのかと、現地に行ってから分かりました。

この調査ではミャンマーに3回行き、それぞれ10日ほど滞在しました。ある時は先生がどうしてもトンボにある自動車工場が見たいと言います。「トンボってどこ?」現地の担当者に話をしたら、車で8時間かかると言います。それでもどうしても行くと言うので、しかたがないので翌日先生2人と私と現地担当者の4人で出発しました。ほとんど舗装されていない道路を延々8時間、それも温度が42度もある熱帯ですのでクーラーも利きません。窓を開けるとドライヤーのような風が入ってきて、車の揺れと暑さでクタクタでした。何でこんな思いまでして工場に行くのかなあ、先生は本当に我侭だなあ、と思いつつ車に揺られていました。

自動車工場といっても本当に小さな工場でしたが、それらの設備を熱心に見て回り、現地の担当者と真剣に話をして、先生は何かが分かったと言います。こんな現地調査もあるんだなあ、やっぱり先生達は開発経済のプロなんだなあと感心しました。その夜はトンボの村人が歓迎の宴を開いてくれました。ミャンマー族、モン族、カレン族、カチン族、ミャンマーは多民族国家です。それぞれの民族ごとにそれぞれの踊りを披露してくれました。その時の「水の舞」という踊りの美しさは今でも良く覚えています。この仕事で沢山のミャンマー人と知り合って、実直で穏やかで、仏教の信心深い人の多いこの国が好きになりました。

3回目の訪問では調査報告書の進呈を行いました。高原社長がミャンマーのエイベル経済省大臣に報告書をお渡しする儀式がありました。その中でエイベル大臣が「彼のように若い日本人がミャンマーに来て、ミャンマーのために働いてくれたことが嬉しい」というようなことを、末席に座っていた自分に向かって言ってくれました。私は車の手配と食事のオーダーをしていただけでしたが、すっかり開発調査の調査団の1員という顔をしていたのかもしれません。ミャンマーはまだ軍事政権下で最貧国に指定されていますが、あの国の誠実さや美しさがずっと続いてほしいと願っています。

調査の仕事にも沢山の種類あります。私達のように企業のマーケティング活動をサポートする調査から、途上国の経済発展を支援する調査、行政の政策決定を支援するような調査、調査の目的や内容は異なりますが、文献調査、統計調査、ヒアリング調査、現地視察調査、アンケート調査と調査手法や、調査の流れはあまり変わりません。そして、何のために実施する調査であるかを常に意識して、自分の技術と経験で責任を持って調査を遂行し、その調査結果がお客様の役に立ち、お客様に喜んでいただくことを遣り甲斐と感じて頑張れるかどうかが重要になると思います。専門性とプロ意識、サービス精神求められる仕事です。

マイボイスの社員には、クライアントの課題解決に役立つため、専門性とサービス精神を持って一生懸命に頑張ってほしいと思います。まだまだ会社も未熟で、経験の浅い社員が多いですが、皆がプロ意識を持って仕事に取組んでいけば、サービスの付加価値と信頼性が高い魅力的な会社に発展できると確信しています。

2007年4月17日 (火)

チャネル戦略調査

私の印象の深い仕事に、住宅関連メーカーの「チャネル戦略調査」があります。前述したようにCRCのマーケティングリサーチは実績も少なく弱小組織でしたので、グループ以外の企業からはほとんど仕事が取れませんでした。そんな中でたまたまこの会社のマーケティング部長をご紹介いただき営業に行きました。「何ができるの」と聞かれたので、「汗をかく大変な仕事でも頑張ってやります」と答えたのが気に入られてたのか、お取引を始めることができました。

最初は小さな案件をいただき、それができると次は中位の案件をいただきました。そんなこんなで1年位やっていたら、毎月の様に案件のご相談をいただくようになりました。このクライアントには非常に誠実で魅力的な方が多く、住宅業界ということもあり義理人情を大切にする社風でした。仕事を通じて私もこの会社が好きになり、先方の担当者も信頼してくれて、社内の会議にも「高井さんだからいいよね」といってよく同席させてもらいました。

ある時、今度非常に重要な調査をやるけどCRCでできるかな、との相談を受けました。これがチャネル戦略調査でした。歴史のある大会社ですから販売チャネルが複雑で、時代の変化に対応できていないのではという問題意識があったようです。チャネル戦略というとカッコいいですが、やることは東京と大阪で工務店や販売店を300件回って、川下の実態を調べるというものです。プロジェクト責任者は同社の専務さんで、全国から5人の社員が招集されて、うちの5人のリサーチャーと10名でチームを組みました。信頼して選んでいただいたからには頑張るしかありません。キックオフから気合が入りました。

ただここからが非常に大変でした。工務店や販売店は忙しく、電話で「第一勧銀系シンクタンクのCRC総研と申します。実は今度住宅関係の調査を・・」と話すだけで、「忙しいからお断り!」、「間に合ってます!」という感じで、がっちゃんがっちゃん切られます。ヒアリングのアポが全く取れません。「大丈夫ですか?」クライアントが不安そうに見ています。なんとかしなくてはいけません。テレマ会社も動員してかたっぱしから電話を入れて何とかアポが取れだしました。大阪ではビジネスホテルに10日間泊まりこんで、知らない街を走り回りました。そして夜は毎日お客様と飲みました。

工務店の社長は個性的で面白い方が多かったです。ビールを飲んだら答えてやるという社長には「飲んだら答えてくれるのですね。ありがとうございます」と言って飲みました。アポを取って訪問したのに社長が不在で恐縮する自分に、同行した担当者に「きっと現場で何かあったんだよ。待ちましょうよ」と言われて雨の中を2時間近く待ったこともありました。本当に社長が泥だらけで帰ってきて「すまんすまん現場で事故があり戻れんかった」といって、知り合いの社長まで紹介してくれました。同社の社員といい工務店の社長といい、建設業界の義理と人情を感じました。

結局300票を集めるのに大人10人が1ヶ月半もかかりました。ネットリサーチに慣れている皆さんからするとたった300票の回収で15人月かかったというのは驚きかもしれませんね。私もリサーチキャリア7年目でしたがこんなに大変な実査は初めてでした。このデータで何が言えるのか、本当に良い分析ができるのか、不安をかかえながら作業を初めて、最後はまた徹夜でレポートを書いていました。

幸いにして非常に良い調査結果が出て、「これを経営会議でも報告してくれ」と言われました。1部上場企業の経営会議で報告なんて初めてでしたので極度に緊張しましたが、夢中で30分のプレゼンをやりました。「ありがとうございました」と言って会議室を出ると、責任者の専務が中座して来てくれて「短い時間に良くまとめてくれてありがとうございました」とお礼を言ってくれました。すごく嬉しかったのと、ますますこのクライアントが好きになりました。翌年にこの専務が社長になった時に妙に私も喜んだのと、やはり人間的に素晴らしい方が上に行くんだなあ、と妙に納得した出来事でした。

こちらの会社は、今も当社の大切なクライアントです。CRCの時にお仕事をいただいてからもう15年以上も経っているのに、まだお取引が続いていることを大変ありがたく思っています。当社のクライアントは800社ほどありますが、その1社、1社に色々なお取引の経緯があり、関係者が一生懸命に仕事をやることでやtっと築いた信頼であることは覚えておいて下さい。信頼を築くのは本当に大変ですが、壊すのはあっけないほど簡単です。社員の皆さんには、そのことを心に留めて仕事に取組んでほしいと思います。

2007年4月16日 (月)

不動産開発のニーズ調査

某商社からは毎年10件位のお仕事をいただきまっした。商社はメーカーではありませんので商品開発やブランド戦略というより、こんなアイディアが事業になるのかといったニーズ調査や、どんな事業採算が見込まれるかという事業化調査(F/S調査)が多かったです。

私が沢山お手伝いしたのは不動産開発のニーズ調査です。八ヶ岳のこんな場所にこんなリゾートを開発したら売れるだろうか、大磯に大規模な研修施設を作ったら企業は使ってくれるのか、北海道のこの地域にこんなコンセプトの工場団地ができたらどうだろう、ハワイで大規模なホテルを開発したら、三田のある大使館の跡地に経営者専用の会員制医療施設を建設したら・・・、商社には本当に沢山のビジネス情報が集まり、皆良く色々なアイディアを考えるなあと関心しました。

調査のプロセスは、まず関連情報を集めることから入ります。会員制医療施設がテーマであれば医療施設関連の情報を日経テレコムの検索情報や関連団体の資料で調べて、だいたいの市場構造や競合サービスを理解して調査設計を行い、その後は対象者への郵送アンケート、そして必要であれば20件程度の訪問ヒアリングを行うというのが流れです。それを2~3ヶ月で遂行して300~500万円位の費用をいただきました。この手の調査はある程度頭の中でパターン化できていたので、はいはいまいどありーという感じで対応できました。

今の当社のネットリサーチであれば3週間、150万円位でほとんどやれる内容かもしれませんね。郵送アンケートでは、調査票印刷とラベル作成で1週間、発送と回収で3週間、コーディングとデータ入力(パンチ)で1週間と、実査だけで1ヶ月以上かかりますので、どんなに急いでも2ヶ月はかかります。また、インターネットがなかったらめ関連情報を集めるのも本屋や刊行物センター、関連団体などを回って資料を集めるのにも結構時間がかかっていたように思います。

回収数は200~500件の案件が多かったですが、回収率が500円のテレカが謝礼で8~12%程度でしたので、2,000~5,000件の発送が必要になります。このラベル代、印刷と郵送費、発送代行費が@200円、回収後のパンチ代と謝礼発送費が@800円位ですので、実査の経費だけで55~140万円が発生します。またこれを管理する人の人件費もありましたので、郵送アンケートは実費だけでどうしても100~200万円はかかるという構造です。

最近は個人情報保護法の制定や住民基本台帳の改正によって、郵送調査の発送ラベルを作ること自体が難しくなっていますので、官公庁の調査も含めて益々ネットリサーチの役割が高まってくるでしょう。ただ、調査の目的によっては郵送調査が必要なケースもあると思います。当社はネットリサーチが中心ですが、顧客対応力を高めるため必要に応じて郵送調査も対応できるようにしたいと思います。服部さんや永森さんも腐るほど郵送調査を経験していますので、会社としては十分にノウハウがありますのでいつでも相談して下さい。

2007年4月13日 (金)

国別投資環境調査

CRC総合研究所は第一勧銀からも出資を受けていて、ある時は伊藤忠系のシンクタンク、ある時は第一勧銀系のシンクタンクと言って仕事をしていました。そして、第一勧銀からはグループ会社の支援として、毎年3カ国位の「海外投資環境調査」という調査をいただいていました。

こちらは第一勧銀の取引先が海外に進出する時に渡すガイドブックを作成する仕事で、その国の外資政策や優遇税制、産業構造、労働環境やインフラなどを調べて200頁位の原稿を書き上げます。調査手法は文献調査と、現地調査、現地でのヒアリング調査です。こちらは5~6年担当して、第一勧銀の出向者とトータルで10カ国位回りました。

色々な国に行けるのは良いのですが、進出企業や大使館、現地の投資機関などを1週間の出張で20ヶ所以上回ります。知らない国で1日に4~5件をヒアリングで回り、知らない人と面談するのは結構大変です。よく話をしてくれる人は良いのですが、無口で無愛想な人が出てくると、話の切っ掛けをつくるだけでも一苦労でした。移動と人疲れのため、ホテルに戻ってヒアリングメモをまとめて、ビールを飲んだらバタンキューという日も沢山ありました。

ヒアリング調査というのは調査結果をまとめるのが難しい手法です。皆が「この国は採用環境が悪い」といえばそれで間違いないでしょうが、数社が「悪いと言い」、数社は「問題ない」と言って色々な事例をお聞きします。その場合どんな風に報告するのが客観的なのか迷います。このあたりは定性分析の側面が強い調査手法の難しいところです。最後は適切な表現を探してウンウンうなりながら何度も書き直すような作業になります。

海外投資環境調査は、最後はきちんと編集されてガイドブックとして千部位は印刷されました。自分が苦労して書いた原稿が本になるのは結構嬉しいもので、今でも自分で書いた国の投資ガイドブックは大切に取ってあります。

マイボイスコムはネットを通じた情報収集が主であるため、直接人に会って情報をいただくことはほとんどありません。ヒアリング調査はアポを取るだけでも大変ですし、色々な人から話を引き出すのも苦労します。その面では行動力とコミュニケーション力の求められる手法といえます。非常に効率は悪いですが、ピンポイントで深い情報を取る時には必要な調査手法といえます。

2007年4月12日 (木)

数字選択くじ調査

マーケティングリサーチを始めて5年目位に「数字選択式くじ」の企画コンペがありました。今はもう定着していますが、米国で行われていたナンバーズを日本でも始めようという構想で、その受容性や商品設計、売上予測を検討するための調査の引合いです。こちらを6社位のシンクタンクで企画コンペをすることになりました。非常に大規模な調査で予算もン千万円ということで気合が入りました。

気合と根性で企画を作成して、何とか受注することができました。その当時は日本で数字選択くじの概念がなかったので、その特徴をどう伝えて評価してもらうかに工夫をしました。全く今まで身近にないような商品コンセプトの場合、良く特徴が伝わらないとネガティブな意見に振れるので、如何に商品性を伝えるかが重要です。そのため米国の事例を参照するとともに、漫画的なシナリオを作成して説明資料に加えました。

調査手法は全国10ヶ所位で大規模な訪問調査をやり、数千件の調査票を回収するという設計でした。大規模な訪問調査を仕切るのは初めてでしたので、調査票案が出来た時にはちゃんと答えられるか検証するため、自分達で訪問テストをやることにしました。実査の外注費用だけでン千万円かかりますので絶対に失敗は許されません。私がリーダーでスタッフ5人を率いて3チームを作り、1チーム50票獲得をノルマにして都内某所を回りました。

訪問調査ってやってみると本当に大変な作業です。車の飛び込み営業と一緒です。インターフォンを押しても空けてくれませんし、断られてばかりでへこみます。公園で子供を遊ばせているお母さんにも協力をお願いしました。こちらは意外にうまく行きました。人が沢山集まる某有名な神社でお願いしていたら、神主さんにこっぴどく怒られてしまいました。本当に調査員さんて大変な仕事なのだと痛感できました。

実査が始まれば実査会社に任せるしかないのですが、クライアントを連れて札幌や仙台などの調査員さんの説明会にも立ち会いました。こうして集まった数千票の調査票でしたので、調査票の1つ1つに調査員さんの苦労が見えて、ちゃんと良い報告書を作らないと申し訳ないよなあという責任をひしひし感じました。

調査の仕事は途中までは大勢のスタッフが関わりますが、最後は1人で考えながら孤独にまとめる作業が必要になります。集計データが出来てしばらくはこの仕事に集中し、商品設計や需要予測、他の宝くじへのカニバリの影響分析などをやりました。最後はまた徹夜でした。こちらの報告書はとても評判がよく、3年後に聞いたら売上もほぼ予測値にピッタリだったそうで褒められました。そしてこの実績が買われて「ロト」が導入される時の調査も、コンペで勝つことができました。

苦労した調査のことは今でも良く覚えているものです。また具体的な商品になったものを見ると嬉しくなります。もちろん私の提案通りに商品ができた訳ではありませんが、ナンバーズやロトを見るとなんか懐かしくなります。皆さん、私が少しだけ関わったナンバーズとロトを是非買ってやってください。

2007年4月11日 (水)

米国レジャーランド調査

CRC総合研究所の頃はまだネットリサーチがありませんでしたので、1件の調査案件に2~6ヶ月はかかっていました。自分がメインで携わるテーマは年間20本位だったと思います。価格は300万円から800万円位で、時々数千万円という案件もありましたが、平均単価は400~500万円という感じです。ネットリサーチになって期間は1/4、単価は1/5位に下がったというのが私の実感です。

これはもう時効ですし、没になった企画なので話せますが今から20年ほど前に某商社が東京ディズニーランドの成功を見て、もう1つ首都圏に大型レジャー施設がつくれないか、そのため何か良いアイディアがないか米国を調査したいという話をいただきました。何か良く分かりませんが、某商社のご担当者と2人で米国に行って、毎日遊園地に行く仕事といいます。私にとっては初めての海外調査で、それも遊園地ですからすごくラッキーだと思い手を上げました。

最初は西海岸に行きディズニーランドやナッツベリーハウス、ユニバーサルスタジオなどを回り、その後にヒューストン、フロリダ、ニューヨーク、カナダのオンタリオ、エドモントンなどを2週間で回る計画を立てました。それぞれの施設の概要を集め、何か面白いアイディアはないか、どんな施設にどの位の人が乗っていて、どの位の収益が予想されるかなんかを調べていました。毎日昼間はレジャー施設に行って調査をして、夕方フライトで別な都市に行き、翌日はまた別な遊園地を訪問する毎日です。

最初は楽しかったのですが、しばらくすると毎日男2人で遊園地に行くのが苦痛になってきました。おそらく一緒にいったその人も同じように感じていたのか、ニューヨークに着いたら「急用ができたので悪いが後は1人で行ってくれ」といって帰ってしまいました。何も恐いニューヨークで捨てなくても・・・と思いましたが、仕事ですし相手はクライアントなので文句は言えません。その後は毎日1人で遊園地に行きました。約2週間、毎日のように飛行機に乗って10ヶ所位の遊園地を回り、大変に疲れました。

この調査で分かったことは、米国にもあまり目新しいアイディアはないということ、シュミレーションマシンを沢山揃えたレジャーランドは面白いのではというアイディアも出ましたが、首都圏で大規模な土地を確保するだjけで採算が回らないという結論でした。せっかく2週間も遊園地を調べましたが、1ヶ月でこの企画は無理だなあという結論になりあの辛かった2週間は何だったのかと空しく感じたのでした。

遊園地はプライベートで仲の良いメンバーで行く場所でした。仕事は仕事です。調査対象が楽しいものでも、仕事自体が楽しいとは限らないということを学びました。こういうような現地調査中心のリサーチもあります。ネットリサーチだとなかなかこういう経験はできませんが、当社も手法の幅を広げて、現場を見て提案するような仕事がもう少しあっても良いのかもしれませんね。こういう調査はその時は辛いですが、ちょっとだけ度胸は付くかもしれません。

2007年4月10日 (火)

産業調査チームと言っても

そんな訳で根回しの甲斐あって2年目には産業調査チームに異動となりましたが、そこは出向者が2名、プロパーの研究員が3名のマーケティングリサーチの素人ばかりのチームで、仕事は伊藤忠や第一勧銀から来た案件がほとんどでした。提案書を書こうと思ったらそんな物ないというので「提案書の書き方」を買ってきて書きました。

CRC総合研究所は800人位の大組織でしたが、産業調査チームは5名の素人集団ですからできることは限られます。やっとアポを取って営業訪問しても野村総研や三菱総研と比べて何が強いの?、いつも頼んでいる大手調査会社と同じことできるの?とけんもほろろで、最初はグループ企業以外の新規開拓はほとんどできませんでした。

それで課長と相談して研究員を増強することにしました。その当時はシンクタンクは人気だったので個性的で有能なスタッフが集まりました。その当時のメンバーには、当社のリサーチ研修をお願いしているシャープマインドの松尾社長や、米国でMBAを取って国際協力銀行で活躍している都合君、同じくMBAを取ってニュージーランドでコンサルをしている中川君、CWニコルの友人で自然保護のコメンテータでTVにも出ている米国人博士のケビン・ショートさんなどもいました。皆自分の力で何かやるというプロ意識みたいな物は持っていたように思います。スタッフも10人ほどになりこれでやっと戦えるという雰囲気になりました。

ただスタッフが増えたら今度はそのコストに見合った仕事を取るのが大変でした。伊藤忠や第一勧銀から来る仕事では全然足りません。色々と営業をして不動産、建設、建材、流通、機械、通信、景観、リゾート、宝くじ等、取れる仕事は何でも取りました。調査手法も、アンケート、訪問ヒアリング、文献調査、統計分析、需要予測、委員会運営、海外調査など何でもやってみました。すべて手探りで、クライアントに教えてもらいながら、叱られながら、知ったかぶりしてしてやっていた感じです。納期に間に合わないと相変わらず徹夜で、シンクタンクの研究員(リサーチャー)は因果な商売だなあと思いました。

ただ、リサーチの仕事を5年位やって場数を踏むと自分の中の引き出しも増えてきて、クライアントの要望にも何とか応えられる自信が付いてきます。一生懸命にやった案件がクライアントに評価されて色々なご相談をいただく関係になったり、大手シンクタンクに企画コンペで勝ったりというのが励みでした。一生懸命にやればクライアントは分かってくれますし、色々な経験を積むうちに、技術力と自信が付いてくるようです。主体的に取組んだ経験こそが1番の力になるのだと思います。

次回から自分が経験して印象に残っているプロジェクトを、幾つか思い出しながら紹介してみたいと思います。

2007年4月 9日 (月)

マーケティングリサーチの仕事

ちょっとイントロが長くなってすみません。社会人になって24年も経つのでマイボイスコムが出来るまでをもう少し語らせてください。

CRCでは経済計量モデルの仕事から始まりました。その当時のお客様は通産省と第一勧銀で、CRAY-1というスーパーコンピュータと1日中睨めっこでした。今ならパソコンでもできる計算を1秒いくらという非常に高いCPU使用料を取っていました。大きなコンピュータがないと経済予測も原子力や構造計算も出来なかったようで、私が入る少し前まではCRCの前にスーパーコンピュータで計算して欲しいとお客が並んだという話も聞きました。ちなみに竹村さんは人事部長や業務部長という要職を経験しておられますが、最初は科学技術部門の技術者で構造解析のプロだったそうです。ちょっと驚きでしょう。

その頃のCRCには伊藤忠や第一勧銀、国鉄(まだ国鉄でした)、清水建設からの出向者がいて、そんな人達とよく神田で飲みました。ある時おでん屋でかなり飲んでしまって翌日二日酔いで1時間遅刻をしました。プロパーの課長に飲みすぎて遅れてすみませんと伝えたら、「ああ良いよ」位でしたが、一緒に飲んだ5歳年上の第一勧銀の出向者から「二日酔いで遅刻なんて社会人として絶対許されないことだぞ。CRCは甘いからいいけど、今後は気をつけるように!」と叱られたのを覚えています。うちにもこういうお小言をくれる先輩が必要なのかもしれませんね。ちなみにこの人は今、みずほキャピタルにいて今でも時々飲んでいます。

1年ほど計量モデルをやって、これは自分には合わないなあと感じていた頃に、清水建設から来ていた先輩と飲みました。「計量モデルは自分には合わない」と愚痴っていたら、それならこっちに来たらどうだ、マーケティングや海外調査もあるからお前に向いているんじゃないかということになり、上司に掛け合ってくれました。その工作がうまく行って2年目には計量モデルチームを無事脱出して、産業調査チームに移りました。ここがマーケティングリサーチという仕事の出会いです。

考えてみると自分の人生は神田の飲み屋で方向性が決まったようなものです。この頃神田で飲んでいた人達とはほとんど今でもお付き合いしていて、色々と助けてもらっています。やっぱり若い時のノミニケーションや人間関係は大切なのかもしれませんね。

2007年4月 8日 (日)

リサーチャーとの出会い

社内ブログを始めるとは言ったものの、何から書いたら良いか分かりませんので、まず私の仕事の経験や会社が出来た経緯あたりから始めようと思います。あまり華々しい経歴でもかっこよい職業選択でもないので、ぜんぜんつまらないかもしれませんが、ああこうしてこの会社ができたのかという感じで聞いて下さい。

私は大学で筑波大学の農林学類、生物生産組織学専攻を卒業しました。理系と文系の中間みたいなところで生物学から経済学まで適当に勉強できました。筑波大学も出来て5年目で筑波学園都市全体が工事現場みたいなところで、雨の日に女子大生が長靴とジャージで通学してくるところを見てかなりショックを受けたのを覚えています。

クラブは「野生動物研究会」で真夜中に筑波山を登ってイノシシを見に行ったりと、けっこう田舎でワイルドな生活を送りました。いつも採用面接では偉そうに「マーケティングの知識は?、リサーチの経験はあるの?」なんて言ってますが、実は私自身は全然マーケティングやリサーチなんか勉強していないんです。

卒業時は真面目に社会に貢献したい、日本の食糧問題に取組みたいと考えて、国家公務員上級試験を受けて農林水産省に入ることにしました。半年ほど勉強して1次試験は無事受かったのですが、8割通るという小論文と面接の2次試験に何故か落ちてしまい大ショック。自信家の自分が始めて味わう挫折でした。そんな訳で私の社会人は挫折と迷走からスタートしました。ただ今から考えると自分は官僚組織には向かないので、あの時落ちて良かったと思っています。

その後は取りあえず就職はしたものの何か違和感があって身が入らず、しばらく旅に出て仕事って何か、どんな職業であれば真剣に取り決めるかを考えましたが答えはでませんでした。それで自分は何に強いか、何をしている時に楽しいかと考えて「企画力」という軸を選び、自分の企画力が活かせそうな仕事がないかという視点で見つけたのが、リクルート、ソフトバンク、東洋情報システム、センチュリリサーチセンタの4社でした。

私はまだ25歳で元気が良かったためか4社とも内定をもらいました。その時に1番つまらない会社と思ったのが「ソフトバンク」でした。その時のソフトバンクはまだ社員が70人位で、PC雑誌の出版とパッケージソフトの販売の会社で、企画営業職という職種でしたがライトバンで小売店を回ってPC88のゲームソフトを売る仕事でした。ちょうど孫さんが体を壊して社長を引退していた時で、ピンチヒッターの社長とも会いましたけど、全く面白みが感じられない会社でした。あの時に孫さんが社長で、熱く仕事を語ってくれたら22年前のソフトバンクに入って、今頃は孫さんの小指位にはなれたのでは・・・?と思います。人生は本当に分かりません。

最初に行こうと思ったのはリクルート、まだリクルート事件前で銀座8丁目のあのきらきらしたビルが建ったばかりで、電通を抜かすぞ!と飛ぶ鳥落とす勢いでした。今でも覚えているのですが内定したら人事部長が新橋の料亭に連れて行ってくれて「ふぐのコース」をご馳走になりました。銀座のビルには若くて可愛い女性も多くすごくいい会社だなあと思って、是非お世話になろうと思いました。しかし、料亭で自分が企画営業を担当するという「住宅情報」をもらってずっと見ていたら、この仕事って企画力勝負なんだろうか、自分が興味を持って取組めるだろうかと思ったら急に覚めてしまい断ってしまいました。ふぐのただ食い今でも申し訳なく思ってます。

残ったのがセンチュリリサーチセンタ(後のCRC総合研究所)でした。リクルートと比べてCRC総研は日本橋本町の小津本館ビルという古いビルにある地味な会社でしたが、何となく情報そのものを扱う仕事は自由度が高そうで、自分の企画力や行動力で色々できそうな仕事だと思いました。ここではじめて「リサーチャー」という職種と、シンクタンクという業種の存在を知りました。何となく頭で勝負するシンクタンクはかっこいいというイメージもありましたし、またCRC総研の社員は地味ですが真面目そうで、誠実な感じがしたこともプラスに働いて、まあここで良いか位の気持ちで入社しました。

配属先は「計量モデル」を構築してシミュレーションを行う部署で、朝から晩までコンピュータとデータの睨めっこ。「企画力」というより「忍耐力」ばかり求められる仕事で、訳の分からない経済統計でデータファイルを作り重回帰分析をやって回帰式を作り連立方程式を解く毎日です。うまく結果が出ないと2日位連続で会社に泊まって徹夜でコンピュータを動かしていました。その時はやっぱり銀座のリクルートだったかなあと後悔しました。

本当に人生は分かりません。迷いと選択と後悔の連続のような気がします。

2007年4月 7日 (土)

社内ブログ始めます

社内ブログを始めることにしました。

マイボイスコム(株)を設立して7年と8ヶ月が経ちました。99年7月の設立時は私と岡島君に契約社員で入ってもらった五十嵐さん(熊本在住)の3人だけでしたが、今は50人ほどに増えてずいぶん会社らしくなりました。しかし、組織が大きくなるにつれて社員の皆と話す機会もめっきり少なくなり、私として当然話したと思っていることや、社員であれば当然知っていると思うことが伝わっていないことが増えたように感じています。

社員が20人位まではよく皆と話をしましたし飲みにも行きました。今度戻ってきてくれた岡本君が入ったころは毎週飲みに行って仕事の話をしましたし、全員で社員旅行に行ったり納涼船に乗ったりと全社イベントももっと多かったように思います。そして、あまり会議などで話をしなくても会社の基本的な考え方や価値観も浸透していて、会社で何が起きているのか、誰が何をしているかも自然に理解できました。それが50人規模の会社になり、今後も発展させるために組織を通じて情報が伝わり実行する仕組みを作ることが不可欠になりました。これは成長路線を選ぶからには避けて通れないことですが、社内の情報伝達の方法も変化させる必要があるのだと思います。

ただ一方で、オフィシャルな会議などではなく、日常の雑談やノミニケーションを通じて会社や仕事を実感できることも沢山あります。またそういう職場外のコミュニケーションで気付くことや、会社に取り入れるべきアイディアも沢山あると思います。それが今の当社では新しい人が急に増えたり、毎日の業務が多忙であることからあまり機能していないように思います。小さな会社のまとまり感、コミュニケーション力が薄れて、企業としての組織力がまだ定着していない、そんなちょっと不安定な状況が今の当社の置かれたステージなのかもしれません。

昨年、退社予定の社員と2人で4時間位飲んで話をしました。確かにその方とは2人で飲んだことも、少人数で飲んで語ったことも1度もありませんでした。私の仕事の経験や会社のことを色々としていたら、もっとこういう話を働いている時に沢山聞きたかった。今のマイボイスは社員間の日常会話が少なく、上司や同僚からお酒や食事を誘われることもほとんどないのが社員が不安に感じる原因になっているとの指摘を受けました。確かに最近はメールやイントラでの伝達が増えて、雑談やノミニケーションの機会も減っていて、そのことが相互理解の妨げになっているのかもしれません。私もできるだけ社員個々人との会話の機会を増やしたいとは思いますが、この社内ブログがコミュニケーション促進の一助になればと思います。

もちろん堅い話ばかりでなく、私の日常生活の中で感じたことや気になったなども書かせてもらいます。最近は色々な立場の方とお会いする機会も増えているので、社内ブログということですから、できるだけ率直に書いてみます。典型的なB型人間で飽きっぽい性格ですが、メンバーフォーラムの管理人は8年以上続いています。こちらも頑張って続けてみたいと思いますので応援して下さい。

高井