会社と組織 Feed

2007年5月 9日 (水)

会社の分岐点

2005年3月に6年目の決算が終わりました。この期末の社員数は30名で、アルバイトの方などを含めると38名になりました。売上は前年比46%増に拡大し、経常利益も8千万円強まで増やすことができました。経営的には良い状態でしたが、組織的にはこの頃が1つの分かれ道だったように思います。

前にも書きましたが社員が20人位の組織はまとまりが良く、仕事は厳しくても仲間意識を持って楽しく働くことができました。そして、20人位の組織であれば優秀な人材で前向きに仕事に取組めばすぐに結果は出せますし、専門家集団として高収益な会社にすることもできると思います。イメージ的にはデザイン事務所や設計事務所、SP会社等によくある「○○オフィス」みたいな会社です。私は個人的にはそんな働き方は嫌いではありません。

ただ、マイボイスコムは、ネットリサーチやネットマーケティングに取組むことを事業としています。この分野にヤフーさんや楽天さんインテージさんのような大会社が入って来た時点で、当社の「小さいけれども素晴らしい仕事をする高収益な会社」という選択はなくなったと思います。会社は収益を上げて継続し発展して行かないと、そこに携わる人達が幸せになることはできません。当社の立ち位置では、当社の強みをもっと強めて、会社を成長させて、他社に負けない力を付けていくしか選択肢はないと思います。

アタッカーズスクールの講師やベンチャー会社の経営者から、「30人から50人の時が1番大変だった」という話を良く聞きました。しばらく前に「告白」という起業の実話を綴った本がベストセラーになりましたが、ここでも50人規模になった時に色々なトラブルが発生したことが詳しく書かれていました。おそらく人間という生き物の本能から来る組織発展のセオリーなのかもしれません。昨年度は色々なトラブルが発生して、結果として社員の皆さんに辛い思いをさせてしまったことを心苦しく思っています。

今は小さな会社の良さが減ってきて、まだ大きな組織を運営するための組織力が築けていないのでしょう。そういう意味では今は組織が次のステップに展開するために必要な踊り場であり、さなぎから孵化する前の状態なのだと思います。そして、これを乗り越えた時により大きな仕事に取組める、もっと強い会社になれるのだと確信しています。色々と課題は沢山ありますが、次の飛躍に向かって頑張って行きましょう!

2007年5月 8日 (火)

小さな会社

マイボイスコムになって1番心配したのが、大企業が会ってもくれないのではないかということでした。CRC総研も知名度はありませんでしたが、社員が千人いて伊藤忠商事や第一勧銀のグループ会社です、とか言って何とか商売をしていました。それでも新規開拓は年に1社あるかどうかでしたので、無名で数名の弱小会社が電話をしても、アポも取れないのではないかと勝手に思い込んでいました。

でもそれは間違いでした。取引先や知人の紹介があればかなりの確率で会えましたし、オープンなテレアポでも結構何とかなりました。新しいネットサービスということで関心を持ってくれたこともありますが、皆さんちゃんと話を聞いてくれます。誠意を持って対応すれば世の中何とかなるようです。とにかく何処に仕事があるかも分かりませんので、1日3社は訪問することを目標に外回りを続けました。2年目の終わりの社員は8名で、営業はまだ私1人だけでしたが、売上は何とか1億1千万円まで伸ばすことができました。

この頃は社員の皆も仕事が入るのをとても喜んでくれました。とういうより仕事がなくなると会社もなくなるという不安があったので、仕事が入ると少し安心したのかもしれません。よく「もうすぐ今の仕事が終わるから、早く新しい仕事を取ってきて下さい」と発破をかけられて、そうか何とかしなくてはと営業に出かけました。そして数十万円の案件を取ってくると「今日の獲物はうさぎですね。こんなんじゃすぐ食べちゃいますよ。もっと大きな鹿とかマンモスとかを取ってきて下さい」なんて言われてまた営業に行きました。

漫画の「はじめ人間ギャートルズ」の親父さんか、映画の「男はつらいよ」に出てくる中小印刷会社のタコ社長みたいな立場でした。スタートアップ時のベンチャーってみんなこんな感じなのかもしれません。先行きは不安なのですが、気心の知れた者同士でコミュニケーションも良く、明るく前向きな雰囲気で働くことができました。誰もが当事者意識があり、それぞれが自分で自分の仕事を作って働いていました。誰が何をしていて、何で困っているかも何となく分かり助け合うことができました。このあたりが小さな会社の良さなのかもしれません。

ちなみに余談ですが、銀行では会社を設立して3年以内の社長は「非常に危ない人間」のカテゴリーに入り、十分な担保や収入があっても一切の貸し出しはしないそうです。銀行の基準では新入社員より社会的ステータスが低いのが創業時の社長だそうです。これから起業したい方は、銀行から住宅ローンを十分に借りてから設立することをお勧めします。

2007年5月 7日 (月)

スタートアップ

マイボイスコムは99年7月に設立しました。CRC総合研究所で準備を始めた98年4月が創業になります。この頃がネットリサーチの黎明期でまだビジネスが成り立っている会社はありませんでした。こういう事業が成り立つのか各社が模索を始めた頃でした。

CRCの社長から自由に社名を決めていいと言われて、マイボイスコムという社名を考えました。これからずっと使っていく社名ですのでこだわりを持った名前にしたいと思い何週間も迷って決めました。マイボイスはそのまま「私の声」ですが、個人の価値観にもとづいて主体的な消費生活を送る「生活者」1人1人の意見や要望を企業や社会に伝え、情報共鳴型マーケティングを支援する役割を果たしたいという思いで付けました。コムにはそんな役割を新しいコミュニケーションツールであるインターネットで実現するという意味を込めました。それから会社の理念として「生活者と企業のコミュニケーションメディア」というコンセプトも考えました。この時の考えや理念は今でも全く変わっていません。

会社といっても社員は私と出向で来てもらった岡島君と、契約社員で採用した五十嵐さんの3人だけでした。今までと同じ事業企画室の一角に机があるだけで会社の囲いもありません。まだCRCの1部署という感じでした。私が仕事を取って五十嵐さんに手伝ってもらいながら生産して納品する。岡島君にシステムの企画と運用を任せて、経理や給与計算等はCRCの子会社に委託しました。

大きな会社にいると分からないことが沢山あります。まずどうやってお金が入金してどうやって経費が支払われるのかが分かりませんでした。自分の仕事をすれば、あとは請求書や入金の確認は「誰かが」やってくれるものだと思っていました。でも「誰か」はもういません。営業から生産、人事や経理や総務も自分達でやる必要があります。

見よう見まねでワープロの請求書を作って送り、翌月にちゃんと入金が確認できた時にはちょっと感動しました。始めて働いて初任給をもらったような感じです。また、会社が出来て5年間はすべての請求書をATMから自分で振り込んでいました。社員の給与と月末の経費の入金がすべて終わると、今月もちゃんと義務が果たせたことに安堵しました。会社のお金の流れが分かって1万円、2万円という経費までちゃんと把握できないと、中小企業の経営は成り立たないことが良く分かりました。

お金は資本金の3千万円しかありません。CRCからシステムとモニターを原価で譲渡してもらい、会社設立のもろもろの経費も支払うと2500万円しか残りませんでした。これがなくなったら原則として会社は解散する約束でしたから、すべて倹約してやるしかありませんでした。1万円でも無駄な経費は使えません。色々と工夫をして費用を倹約しましたが、特にシステムは岡島君が藤井君と相談して30万円のパソコン1台とフリーウェアのデータベースで開発してくれたので助かりました。システムを知らない私がどこかに外注していたら1千万円以上はかかっていたでしょう。

別会社になっても何とか仕事は取れました。私と五十嵐さんだけでは人手が足りなくなり、CRCを辞めて家庭に入っていた服部さんに週3日の約束で来てもらい、藤井さんや明石さん永森さん鍛冶さんにも参加してもらって何とか小さな会社の形ができてきました。そして、1期目は9ヶ月間での決算でしたが、売上が4500万円で、小さいながら350万円の経常利益も出すことができました。

2007年5月 2日 (水)

経営会議での承認

事業化(F/S)調査の結果も踏まえて事業計画を出したのは98年10月でした。ただ大きな組織ですから判断してもらう手続きも大変です。まずは事業部で説明し、経営企画部で説明し、経営会議に答申したのは99年の2月になりました。

自分としては事業が成り立つ自信はありました。1年前の空想で作った事業計画とは違います。システムもあり、モニターも2万人近くいて、顧客も20社以上は開拓しました。売上も小さいながら毎月立っています。何とかやれるという自信が持てたのは、社内ベンチャーという立場で事業化調査をやらせていただいたお陰です。もし自分1人で資本金を1~2千万円をかき集めて会社を作っても、システムの外注費と事務所の経費だけですべてなくなり、自分の給与も出せなかったと思います。誰もいない事務所で半年以上も準備ができたかも疑問です。

経営会議の前は流石に緊張しました。自分がやれる自信があってもCRCの経営陣が何と判断するか全く分かりません。社長が「これはちょっと難しいなあ」と思ったら、それでこれまでの苦労は水の泡です。社長がどんな風に思われているのか、全く想像が付かないことがずっと不安でした。また他の役員も自分の事業に対する関心があるようには思えませんでした。

CRCは大きな会社でしたので、毎月沢山のテーマが経営会議で審議されていました。私のベンチャー制度の話なんて会社にとっては小さなテーマでしたが、私の人生にとっては大きな分かれ道になります。持ち時間は30分ほどでF/Sの結果と事業計画を説明して経営陣の判断を待つことになります。ダメと言われれば会社を辞めてもう1度始めからやり直すしかありません。何としてもGOの判断をもらいたい。そのために必要であれば土下座をしてでもお願いしたい位の気持ちで待っていました。

経営会議は広い円卓で役員と、各事業部の幹部や事務局など30人位が出席していました。私が1度も話したことのない役員もかなりおられます。とにかく一生懸命に説得しよう。そう思ってこの1年の成果と事業計画を説明しました。最初に口火を切ったのは以前の事業部長だった丸山常務で「彼に是非やらせたい」というような発言してくました。その後に4~5人の役員が発言をしましたが、全員が「新しいことに取組むことは良いことだ」という賛成の援護射撃でした。そして、最後に社長が「よく準備したと思う。まだ分からないことも多いが頑張ってみなさい」とGOを出してくれました。

その後で事務局である経営企画部の鎌田部長が報告しました。「では承認が得られましたのでCRCの社内ベンチャー1号として半年後を目処に新会社を設立します」、「資本金は3千万円、出資比率はCRCが80%、高井本人が20%、当面はCRCに経営責任がありますので、社名にはCRCの名称を入れて、社長はCRCの経営陣から出して高井君は専務取締役とします」という内容でした。この案は事前に鎌田部長から説明があり、会社ができるなら何でも結構です。と事前に了解してました。

その時に麻生社長が発言されました。「ちょっと待てや鎌田さん、これはおかしくないか。この事業は誰が考えて誰が準備してきたんや。全部高井君がやったことやで。何で高井君をを社長にせんのや。社名も彼に自由に決めさせるのがすじとちがうか。CRCの名前なんて入れる必要はないで・・・」、副社長も隣で頷いていました。社長と副社長はちゃんと約束を守ってくれた。これまでお世話になった役員の方達も皆応援してくれている。涙が出そうになるのをこらえながら、「ありがとうございました。精一杯頑張らせていただきます」と言うのがやっとでした。

新しい会社が出来ることが決まりました。色々な方々の協力と期待、そして誠意に携えられて会社ができることになりました。応援していただいた沢山の方々の期待に応えるためにも、マイボイスコムを絶対に発展させて、しっかりした良い会社にしたいと思っています。

2007年5月 1日 (火)

顧客開拓を開始

何とか最低限のシステムとモニターの準備ができました。回答データのクオリティも思った以上に良いものでした。これなら企業のマーケティングに役立つという感触を持つことができました。あとは仕事を取るだけです。事業の立ち上げで1番重要なのは販売力です。どれだけ良いものでも売れなくては事業になりません。

最初はこれまでの取引先から回りました。あとは知り合いの知り合い、紹介の紹介を頼って色々な企業を回りました。ただこの頃はネット人口も500万人以下で「インターネットは20代男性のオタクのツール」と言われていましたので、皆さんネットで回収できる情報には懐疑的な意見でした。ここでクライアント説得の役に立ったのが自主調査の「定期レポート」でした。

「自主調査でもこんな風にちゃんと分析ができました。実費だけでいいので1度試してもらえませんか」そんなことを言いながら毎日色々な企業を回りました。そんな手探りの営業を続けるうちに具体的なご相談をいただくようになり、商社、外資系生保、カード会社、国際通信会社、流通会社、シンクタンク、コンサル会社などから小さなお仕事をいただきました。特にあのチャネル調査をやらせていただいたCRC総研の時のお取引先が、継続的に定期アンケートの枠を買い取ってくれたのはとても助かりました。やはり建設業界は義理人情の世界です。

案件を取ったら今度はリサーチの実務が待っています。この時はまだ1人でしたので調査設計も調査票作成も、集計やレポートもすべて自分でやらなくてはなりません。毎日昼間は営業に出て、夜になると集計やレポーティングをやって納品しました。見かねた事業部長が週に1日だけなら手伝ってもらっていいよ、と言って紹介してくれたのが鍛冶さんでした。鍛冶さんはテキパキ仕事をこなしてくれて、一緒にやってくれる人がいるのがこんなに心強いものなのかと思いました。それからずっと9年も手伝ってもらっている訳で、鍛冶さんには大変感謝しています。

そんなこんなで秋口には結構リサーチワークも忙しくなり、小額でしたが毎月売上も立ちました。お客様もレポートの内容に満足してくれています。副社長が失敗する理由として説明してくれた「ネット上でまともな人は個人情報を登録しない」、「登録してもちゃんと回答しない」、「いい加減な情報を分析しても意味がない」、「企業はそんないい加減な情報をは買わない」という4つの要因が一応はクリアできたように思いました。

それからもう1度事業計画を書いたのは10月で、準備を始めてしっかり半年が過ぎていました。あの時に社長が「何かやるには半年から1年はかかる」と仰っていた通りでした。やっぱり亀の甲より年の功ですね。年長者の意見を傾聴することの大切さも学びました。

2007年4月27日 (金)

事業化調査

インターネット事業部はほとんど知らない人ばかりで、こちらが挨拶してもほとんど返事もありません。「こいつ何者?」という冷ややかな視線を感じました。事業開発室は私と某商社から出向中の亀田さんの2人だけでした。亀ちゃんがハチャメチャで明るいのが救いでした。

インターネットを活用した事業構想を考えましたが、自分はインターネットのことを全く知りません。どういうシステムを作ったらよいか、どうやってモニターを集めたらよいかも分かりません。誰かインターネットのことを教えてくれる人はいないか、と考えて思い浮かんだのが伊藤忠インターネットに出向中の岡島君でした。彼に相談してみるか。岡島君を八重洲の焼き鳥屋に誘って「こんな商売をやるので協力してくれないか」と頼みました。岡島君は「面白そうだからいいよ」と言ってくれたのですが、こんなに長く関わることになるとは思っていなかったでしょうね。人生は本当に分かりません。

システムを作ってくれたのが藤井さんと籾木さんでした。500万円の予算のうち300万円を払ってこんなものを作って欲しいと頼みましたが、「何を言っているか分からん!」と何度も怒られました。ただ2人は腕が良かったので「分かった」と言ったら3週間くらいで簡単なシステムができて、98年6月からモニター募集を始めました。CRCの天気予報サイトにバナーを出したり、少ない予算から数万円を捻出してメール広告を打ったりして、何とか1ヶ月で約1,500人のモニターを集めて、7月に第1回の定期アンケートをやりました。回答者数は1,033人と少なかったですが、回答率は69%もありました。

依頼メールを送ってしばらくすると回答が入って来るのがとても不思議でした。そして、そのデータを分析してみたらちゃんと傾向がでて、レポーティングが出来ることに喜びました。FAも郵送調査と比べものにならない位にリアルな意見が詰まっています。すごいなあ、これなら役に立つサービスになるかもしれないなあ。本当にインターネットでちゃんとした生活者の声が集まるんだなあ。ほとんど毎日終電でしたので疲れていましが、この頃は毎日感動し興奮していました。

そして翌月に2回目の定期アンケートをやりました。モニター数は4千人に増えていました。この時はモニター情報はデータベースではなく、テキストで管理していて、必要なメルアドをコピーしてBCCに貼り付けて送っていました。登録者が間違った形式で登録するとメールが途中で止まります。それを1つ1つのメルアドを目で確認して、修正しないとメールが送れません。夕刻からメールの作業をしましたが、4千件のメルアドを目視するのに3~4時間がかかり、夜中の11時頃に配信が終わって帰りました。

次の日、悪夢が起きていました。前日にメールを送り終わった直後にシステムがダウンしていたんです。アンケートをお願いしたのに、システムが止まって回答できない状態です。メールを開いたら200件位のクレームが来ていました。「どうしたのですか」という内容が多かったですが、中には「ふざけるな!」的な厳しいメールも沢山ありました。「あ、これで終わってしまったかもね」と岡島君と話をしたのを覚えています。4千人もの人に迷惑をかけてしまった。これでやっと築いたパネルが壊れてしまう、そんな失望を感じながら、1人1人にお詫びのメールを打ちました。この日は1日中お詫びのメールを書いていました。

翌日メールを開いて驚きました。100人位の方から返事が来ています。それも「返事がもらえるとは思っていなかった」、「そんな事情でしたら了解です」、「1人でやっているのですね。大変ですね」、「これからも応援します!」的な暖かいメッセージばかりで嬉しくて涙がでそうになりました。そして、インターネットは乾いた世界ではない。ちゃんと思いや気持ちが伝わる世界なんだ。モニターは大切にしなくはいけない。モニターとの信頼関係がこのビジネスの基本なんだ。そんなこと実感した出来事でした。

私はいつも社員に「当社はメンバー(モニター)第1、クライアント第2」位の気持ちでやって行こう」と話をしています。クライアントからはお金をいただくので、どうしてもそちらを向いてしまいますが、当社にはお客様が2種類あります。1つはお金をいただく「クライアント」で、もう1つはご意見をいただく「メンバーの皆様」です。メンバーに信頼していただいて、きちんとした回答をいただけなければ、当社のビジネスは成り立ちません。当社の社員はそのことを心に留めて、メンバーに感謝して業務にあたってほしいと思います。

2007年4月26日 (木)

社長との交渉

井上部長の作ってくれた社内ベンチャー制度は、とてもフェアな内容でした。単独1人で始めるよりも、長く働いたCRCの力を借りた方が事業が成功する可能性も高くなると思い、この制度でやらせていただくことにしました。

「そうか分かった、では社長と副社長にお前から計画を説明しろ」と言われてお2人に事業企画を説明しました。すると頭が切れると評判の北畠副社長が「高井君、この事業は難しいなあ。止めておいた方が良いよ。出来ない理由はこの4つ、と失敗する理由を理路整然と説明します」、麻生社長は「このプランを真剣に何度か読んだんだが、インターネットもリサーチも知らないので、良く分からなかった。まずは社内で詳細にF/Sをやってから検討したらどうか」と言います・・・、話が違います。私がムッとした顔で何か言い出しそうなのを見て、井上部長が割って入りました。「これからはネットの時代ですし、社内の活性化にも繋がるのですが」、「でもわしは本当に分からんのだよ、このプランが商売になるのかどうか・・」

話が違う、全然上層部に話が通っていないじゃないか。あまり怒らない自分も本当に切れそうでした。でもその時に社長の手元にある自分の企画書に赤線がいっぱい書いてあるのが目に入りました。何やら色々な書き込みもしています。「あ、社長は本当に自分の企画を読んでいる。真剣に読んでくれている」それを見たら冷静さを取り戻すことができました。社長室から出ると井上部長が「おっさん達は形の見えないことには賛成しないものなんだよ。お前の力で形にして見せてやれ。悪いおっさんじゃないから大丈夫だ」と言います。おいおい、なんじゃそれは。それから1ヶ月後に井上部長は某商社に戻ってしまい、私はインターネット事業部に新設された事業企画室の配属となり、「おっさん達」に見える形を作るため1人で活動を始めました。

スタート時にこれからの進め方について社長と2人だけで話をする機会がありました。私は「F/Sは急いで3ヶ月以内にやるので、6月末の結果で判断して下さい」と言いました。社長は「いやいや事業の準備には結構時間がかかるもんだ。1年間の時間と500万円の予算を付けるからじっくりやれ」と言います。私は先を急いでいたので「いやネットの世界は早いので3ヶ月でやります。必死にやればできます」、「いや3ヶ月では無理だ最低半年はかかるから1年間でやりなさい」と言います。それでも「いや社長私は3ヶ月で結果を出すので・・」、と三度言うと社長に怒鳴られました。「お前なあ商売をなめてんのとちゃうか。わしは商社で取引先の中小企業の社長が事業に失敗して自殺したり夜逃げしたのを沢山知っているんだ。お前にそんなことをさせないために十分に準備しろと言っているんだ。黙って言うとおりにしろ!」と押し切られました。

それでも自分は納得していませんでした。「分からず屋だなああのおっさんは。よし3ヶ月できっちり形にして見せてやるぞ。いつまでもウダウダしている時間なんてないんだ。」という思いでした。でも実際にそれからシステムを準備して、モニターを募集して、営業ツールを作って、原価計算をして料金表や見積フォームを作り、顧客リストを作ったり、営業訪問したりとやっているうちに、あっという間に3ヶ月は過ぎていました。6月末にはまだ何も見せられるものなんてできていませんでした。

自分なりに必死にやっていたと思うのですが3ヶ月では無理でした。社長の言ったとおりでした。亀の甲より年の功とは良く言ったものだとつくづく思い知りました。黙って半年から1年はやらせてもらおう。やっと素直に社長命令に従う決心がつきました。

2007年4月25日 (水)

社内ベンチャー制度

マイボイスコムがCRC総合研究所の社内ベンチャー制度でできたことは皆さんご存知ですよね。これにも実は面白いエピソードがあるので裏話を教えちゃいます。

あるヘッドハンティングからお誘いが来たことは話しましたよね。この時はすごく悩んでしまって3ヶ月位うだうだしてました。先方の役員が1席設けてくれてご馳走にもなりましたが踏み切れません。ヘッドハンティング会社には「興味があるのですがもう少し待ってください。」とずっと答えていました。そんな時に某商社から来ていた経営企画部長の井上さんから呼び出されました。

応接室で井上部長が「おい高井さん、何か俺に隠していることないか?」と言います。特に親しい間柄でもありませんし、かなり偉くて目上の方でしたので「特にないですが・・、何か?」と答えると、「某シンクタンクからヘッドハンティングされているよね」と言うんです。もちろん会社には内緒でしたので何故部長が知っているのか分かりません。突然の指摘でかなり動揺してしまいました。後で知ったことですが、某シンクタンクが同業他社から自分を抜くので、CRCの社長に仁義を切ったというんです。まだ正式に返事をした訳でもないのに、ヘッドハンティング会社がミスリードをしてしまったみたいです。今から考えるとしびれを切らしてリークしたのかもしれません。いづれにしても会社に内緒がばれました。こういう話はどこからかばれてしまうものみたいです。

社長は井上部長に「絶対に止めろ」という指示をしたそうで、井上さんが交渉役になりました。「そんなに今のCRCはいやか」、「いやです。自分が主体的に働ける仕事がなくなったCRCに何の魅力も感じません」、「仕事もなく毎日会社で本を読むような生活はうんざりです」、「だいたい今の会社はおかしい・・・」、この際とばかりにかなり失礼で身勝手なことを言っていたと思います。「それならお前の好きな部署に異動させてやる。どこか希望はないか」、「行きたい部署がないからお誘いが来た時にお会いしたんです。理解して下さい」、というようなやり取りが続きました。

普通でしたらここで終わりですよね。でも井上部長はハードネゴシエーターで、とても人間的にも魅力がある良い方でしたので、何回か話をしていくうちに私も冷静になって本音ベースで話をしていました。「実は某総研のお誘いは迷っています。あるビジネスプランコンテストで賞が取れたので、そのモデルを実行したらどうかなども考えているんです。」ということを正直に話しました。

井上部長の反応は意外でした。どんな内容だというので企画書を見せました。「おもろいやないか、ITにも関係するし、これをCRCでやらせてやるから残れよ」、「CRCでは母体が大きすぎて、CRCのコストとスピードでは無理です」、「では子会社を作ってやるからそこでやるのはどうだ」、「井上部長、申し訳ないのですがもう子会社で働くのは空しいので嫌なんです」、「じゃ社内ベンチャー制度を作ってやる。良い制度を作ってやるからそれでやったらどうか」、「社内ベンチャー制度って何ですか・・??」、そんな流れで社内ベンチャー制度ができ、マイボイスコムができる切っ掛けができました。

こうやってみると人生って分からないですよね。一生懸命やっていると誰かが力を貸してくれて、正直な気持ちで熱心に話をしをすると色々な道が開けてくるようです。井上さんは現在ファミリマートの常務で、アメリカ社長として活躍しています。井上さんの恩に答えるためにも、マイボイスコムをしっかりとした会社に育てたいと思っています。

2007年4月24日 (火)

アタッカーズスクール

ビジネスプランコンテストにで受賞して、起業した大物企業家にもお会いして、自分で小さな会社をやる生き方というものを始めて考えるようになりました。でもずっと15年間も会社で働いていて、どうやって会社が作れるのか、会社を作るには何が必要かなんて全く分かりませんよね。それで起業ということを少し勉強することにしました。

本当に会社が暇で9時5時の本読み生活で良かったです。本も数冊読みましたが、自腹を叩いていくつものセミナーやスクールに通いました。多摩大学の「ベンチャー経営講座」や大前研一さんの「アタッカーズスクール」など関係しそうなところに片っ端から行ってみました。1番印象に残っているのは大前研一さんの「アタッカーズスクール」でした。週に1回平日の夜に2時間位の公演が13回ほどありました。20万円の出費は痛かったですが必要な自己投資だと割り切って申し込み全会出席しました。最初と最後は大前さん自身の講演やブレストがありましたが、残る13回は実際に会社を立ち上げて成功している起業家の講演が中心でした。

インテリジェンスの宇野社長、ミスミの田口社長、アスキーの西社長、はせがわの長谷川社長、NOVAの猿橋社長、ベッコアメの尾崎社長、ハウステンボスの神近社長、ディーブレイン出縄社長などから起業の経緯や会社経営の実態をお聞かせいただき、その後で色々と質疑応答をしました。皆さん個性的で魅力的な方ばかりで話も非常に面白くあっという間の2時間でした。実際にやった人の話を伺うことは一番役立つ情報でした。それも10名の方それぞれに違った経緯や動機、経営への思いや価値観で会社を起こして経営をしている、それらの沢山の経験者の生き方のケーススタディが出来ました。そして「皆すごい人達だなあ」と思う反面、「皆色々と迷って苦しんで生きている自分と同じような人間なんだ」と妙に安心しました。

ここに参加してよかったのは「何かやりたい!」と思っている受講者同士の交流が図れたことでした。皆自腹を切って忙しい時間を割いて集まっている「やまっけの多い若者達」でしたので大変面白い人間ばかりでした。誰が誘うわけでもなく毎回講演のあとで安い居酒屋に集まり、2時間の復習が始まります。毎週帰るのは夜中の12時を越えていました。体は疲れますが心は元気を取り戻してきたようでした。

何かに悩んでどうしたら良いか分からなくなったら、まず動いてみるのが良いのかもしれません。そして経験者の話を聞いているうちに、何となく自の中に地図が描けてきて冷静に考えられるようになります。私はアタッカーズスクールに行って沢山の経験者の話を聞き、面白い仲間たちと飲んで騒いでいるうちに、「会社を作る」ということが少し身近に感じられるようになりました。

2007年4月23日 (月)

ビジネスプランコンテスト

日経新聞で社団法人ニュービジネス協議会の「ビジネスプランコンテスト」の募集案内を見つけました。とても小さな記事でしたが何故か気になって切り抜いていました。

この頃はまだインターネットもあまり普及してなくて、ネット人口は300万人位だったのではないでしょうか。ただ、米国ではインターネットがマーケティングに使われ始めたと聞いていて、「ネットゲイン」という本を読みました。そこにはネット上のコミュニティが将来価値を生むだろうと書いてあり、VoteLinkというサイトでネット上で世論投票しているというので投票したらその場で投票結果が表示されました。何かネットって面白いな、これって何か新しいサービスが作れるのではないか、そんなことを感じていました。

このアイディアで事業プランを作り、試しに「ビジネスプランコンテスト」に応募してみようかな。どうせ5時に仕事が終わって帰れるありがたい身分ですから、3週間の提出期限でも何とかなるだろう。そう思って毎日自宅に帰ってから漠然と考えていたイメージをもとに事業計画を作りました。「ネットフォーカスグループの組織化による情報サービス事業 ~生活者と組織のコワークを促進するネットワークの形成を目指して~」、そんなタイトルの事業企画書を作成して提出期限ぎりぎりに郵送しました。

書類審査が通り、審査員7人の前でプレゼンをしました。そして運よく100人の応募者から選ばれて「優秀賞」を取りました。企画書作成やプレゼンは仕事で慣れていたので少しはまともに見えたのかもしれません。その後、東京国際フォーラムでの表彰式がありトロフィーと20万円の賞金をいただきました。この表彰式にはプランコンテストの受賞者の他に、10人位の起業家も表彰を受けてました。アントレプレナー大賞の受賞者がCSKの大川社長(故人)から賞状をもらい、誇らしげにスピーチをしていました。へえこの人達って会社を作ったんだ、起業家ってアントレプレナーって言うんだ・・・、ちょっと別な世界を覗いている感じでした。

その後のパーティはとても楽しかったです。今は亡くなってしまったマクドナルドの藤田田(でん)社長、ユニチャームの高原社長、ドトールの鳥羽社長などいつも雑誌で見ていた経営者と直接話ができました。皆さん普通のオジサンなのに何かかっこよく、そして皆さん偉ぶらずに私の拙い話も聞いてくれました。特に印象的だったのは藤田社長、「ユダヤの商法」等の著書は何冊か読んでいたので、是非話したいと思い、すごい迫力に圧倒されてびくびくしながら話しかけました。

学生部門で受賞した野村さんという慶應の大学院生と3人で話をしていたら、「君は慶應か、俺は東大法学部に行ったのは失敗だったよ。同級生はバカな官僚ばかりでつまらない。本当に優秀なやつはビジネスをやるべきだ。僕が慶應に行っていたらもっと違った人生になったかもしれないなあ。」そんなことを仰ったと思います。「でも藤田社長にとってもっと面白い人生の選択ってありましたか?」と聞くと、「うーん、やっぱり同じことをやっていただろうなあ」といって豪快に笑っていました。今でも藤田社長の名刺は大切に持っています。ただの1枚の名刺ですが思い出のつまった大切なものになりました。

後悔してない人生って素晴らしいですよね。そして凄く偉いのに偉ぶらない人、そんな大きな人間性を持つ企業家にお会いできて幸せな時間でした。たまたま見つけたプランコンテストでの受賞と、大企業家とのほんの短い会話が乾いていた自分の心の刺激になりました。世の中にはすごい人達がいるなあ。会社を作るという人生もあるんだ。そして、このビジネスプランもプロが賞をくれたのだから、もしかすると目があるのではないか、そんなことを考え始めました。97年11月のことです。

この時のビジネスプランは会社に置いてあります。久しぶりに読み返してみたら、今のマイボイスコムの経営理念とほぼ同じことが書いてあり、今やっているサービスと同じ内容が書いてありました。やっぱり事業計画書って大切なのかもしれません。その時のビジネスプランが見たい方はいつでもお見せしますので来て下さい。

2007年4月20日 (金)

ITコンサルの仕事

シンクタンク部門がお取り潰しになって、新設されたITコンサル事業室という部署の部長補佐になりました。自分達の部署とシステム部署から10名ほどが集められて、ITのコンサルをやれと言います。「ITのコンサル?」何をしたら良いか分かりません。親会社から来た室長に聞きました。鉄鋼一筋30年の彼はもっと分かっていませんでした。「まず皆で勉強しよう!」というので、毎日本を読みました。

自分で主体的に取組める仕事がないことは大変に辛いことです。毎日本を読んで、セミナーに出て、9時~5時で帰れるのですが毎日ぐったり疲れます。そしていつも風邪をひいていました。システムを開発したこともない自分が、ITのコンサルをやっても絶対に1流にはなれないなあ。こんなことをやっていたら人生の無駄になるなあ。そんなことを考え始めました。

こういう時には何かの波動が出るのかもしれません。もうこれはもうだめだと感じた頃に2つの出来事がありました。1つはヘッドハンティング会社から某大手シンクタンクのマーケティング課長のお誘いが来たことで、もう1つは社団法人ニュービジネス協議会が「ビジネスプランコンテスト」をやるという日経の記事を見つけたことです。

シンクタンクの話はとんとん拍子に話が進みました。これまでやってきたマーケティングリサーチや産業調査の仕事ですし、会社の都合で断わったクライアントの仕事も是非取ってほしいといいます。これまでの経験とネットワークが活かせますのでやれる自信はありました。銀行系ということで待遇も良く社会的な知名度や信用もありますし、普通に考えたらすごくタイムリーでラッキーなお誘いだったのかもしれません。

でもこの話は3ヶ月も迷った末に断りました。この仕事は好きですしやれる自信もありましたが、社員のほとんどが親会社の銀行員で、会社の雰囲気も銀行そのものという空気に違和感がありました。そして、ここはりっぱな会社で優秀な社員も沢山いましたが、やっぱり大企業の子会社ですから、プロパーで中途採用の自分がどんなに頑張っても主流にはなれない、また同じような空しさを感じる時が来ると思ったら踏み込めませんでした。

面白い話でこのシンクタンクも今は当社のクライアントです。その時に相談した相手が先方の担当者だったりしています。世の中繋がっていて無駄なことは少ないようです。

もう1つの「ビジネスプランコンテスト」は、マイボイスコムが出来る切っ掛けにもなっているので次の機会にします。ちょっと過去話が長すぎますかね。もったいぶってすみません。

2007年4月19日 (木)

会社の変化とリストラ

そんなこんなでリサーチの仕事を13年やりました。色々な案件をこなすことで知識や経験の引き出しも増え、信頼してもらえるクライアントもできて自信も着いてきました。継続は力なりは本当だと思います。

ただ、シンクタンク部門は大きな赤字になっていました。シンクタンクの仕事は労働集約であまり効率的ではなく、千人以上の大会社の販管費を賄えるほど収益性がなかったという環境要因もありますが、1番の原因は経営のやり方だったと思います。業務内容の分からない本部長や部長が親会社から来て、50人ほどだった社員を120人まで一気に増やしました。それもリサーチやコンサルが未経験の年配者も多く、ピークには本部内に顧問が7人もいました。そして、いつの間にか毎年「ン億円」もの赤字を生むようになっていました。

自分としては一生懸命に働いていましたし、自分の案件は採算も取っていましたので、本部の赤字は別世界のことだと思っていました。私も現場から見ていて「こんなことしてたら赤字になるのは当たり前だよな」くらいに考えていました。ただ、社名も総合研究所ですしグループの位置づけもあるので、赤字でもシンクタンク部門がなくなることはないと思っていました。巨額な赤字なのに現場は全く危機感を持っていませんでした。

しかし、新しい社長が親会社から来ると流れは一変しました。「この赤字は一体何だ!」、「シンクタンクは商売にならないじゃないか!」ということになり、3年間の猶予期間の後にシンクタンク部門は廃止になり、社名もCRCソリューションズに変わりました。やっと築いてきたお客様からの仕事も断わらなくてはなりません。優秀な社員から辞めて行きました。また一緒に働いていた社員が何人もリストラになりました。ただし親会社から来た社員や経営者はリストラの対象になりません。会社って何だろう、子会社って空しい存在だなあ、そんなことを実感する日々でした。

この時はこの社長を何て身勝手な人なのか、沢山の社員の人生を狂わせて良いのか、そんな風に考えていました。ただ、今から考えるとあの時の社長は、民間企業の責任者として経営課題に真剣に取組んでいたのだと思います。「3年で赤字をゼロにする」という当たり前の目標に、危機感を持って取組めなかった組織にこそ問題があったのだと思います。企業にとって赤字は「悪」です。悪を退治できない組織に未来はありません。

会社を作ったからには継続しなくてはいけません。継続し成長し発展しなければ社員を幸せにすることも、取引先や株主等のステークホルダーに対する責任も果たすこともできません。事業や会社の業績に対して主体的な取組みを失った組織がどうなるのか、赤字がどれだけ多くの社員を不幸にするのか身を持って体験できたことは、今の私にとって貴重な財産になりました。

マイボイスコムはまだ歴史も短く、財産も少ない会社です。この船に乗った社員の1部でも会社の業績と自分は関係ないと思い、赤字でもしょうがないと思った瞬間から船は沈み始めます。私はこの会社の船長として、絶対にあの時のシンクタンク部門のようにはないように頑張ろうと心に誓っています。会社が成長し発展できれば、仕事の可能性も広がり待遇も良くすることができます。当社の社員には会社の事業と業績に関心を持って、主体的に仕事に取組んでほしいと思います。

2007年4月10日 (火)

産業調査チームと言っても

そんな訳で根回しの甲斐あって2年目には産業調査チームに異動となりましたが、そこは出向者が2名、プロパーの研究員が3名のマーケティングリサーチの素人ばかりのチームで、仕事は伊藤忠や第一勧銀から来た案件がほとんどでした。提案書を書こうと思ったらそんな物ないというので「提案書の書き方」を買ってきて書きました。

CRC総合研究所は800人位の大組織でしたが、産業調査チームは5名の素人集団ですからできることは限られます。やっとアポを取って営業訪問しても野村総研や三菱総研と比べて何が強いの?、いつも頼んでいる大手調査会社と同じことできるの?とけんもほろろで、最初はグループ企業以外の新規開拓はほとんどできませんでした。

それで課長と相談して研究員を増強することにしました。その当時はシンクタンクは人気だったので個性的で有能なスタッフが集まりました。その当時のメンバーには、当社のリサーチ研修をお願いしているシャープマインドの松尾社長や、米国でMBAを取って国際協力銀行で活躍している都合君、同じくMBAを取ってニュージーランドでコンサルをしている中川君、CWニコルの友人で自然保護のコメンテータでTVにも出ている米国人博士のケビン・ショートさんなどもいました。皆自分の力で何かやるというプロ意識みたいな物は持っていたように思います。スタッフも10人ほどになりこれでやっと戦えるという雰囲気になりました。

ただスタッフが増えたら今度はそのコストに見合った仕事を取るのが大変でした。伊藤忠や第一勧銀から来る仕事では全然足りません。色々と営業をして不動産、建設、建材、流通、機械、通信、景観、リゾート、宝くじ等、取れる仕事は何でも取りました。調査手法も、アンケート、訪問ヒアリング、文献調査、統計分析、需要予測、委員会運営、海外調査など何でもやってみました。すべて手探りで、クライアントに教えてもらいながら、叱られながら、知ったかぶりしてしてやっていた感じです。納期に間に合わないと相変わらず徹夜で、シンクタンクの研究員(リサーチャー)は因果な商売だなあと思いました。

ただ、リサーチの仕事を5年位やって場数を踏むと自分の中の引き出しも増えてきて、クライアントの要望にも何とか応えられる自信が付いてきます。一生懸命にやった案件がクライアントに評価されて色々なご相談をいただく関係になったり、大手シンクタンクに企画コンペで勝ったりというのが励みでした。一生懸命にやればクライアントは分かってくれますし、色々な経験を積むうちに、技術力と自信が付いてくるようです。主体的に取組んだ経験こそが1番の力になるのだと思います。

次回から自分が経験して印象に残っているプロジェクトを、幾つか思い出しながら紹介してみたいと思います。

2007年4月 9日 (月)

マーケティングリサーチの仕事

ちょっとイントロが長くなってすみません。社会人になって24年も経つのでマイボイスコムが出来るまでをもう少し語らせてください。

CRCでは経済計量モデルの仕事から始まりました。その当時のお客様は通産省と第一勧銀で、CRAY-1というスーパーコンピュータと1日中睨めっこでした。今ならパソコンでもできる計算を1秒いくらという非常に高いCPU使用料を取っていました。大きなコンピュータがないと経済予測も原子力や構造計算も出来なかったようで、私が入る少し前まではCRCの前にスーパーコンピュータで計算して欲しいとお客が並んだという話も聞きました。ちなみに竹村さんは人事部長や業務部長という要職を経験しておられますが、最初は科学技術部門の技術者で構造解析のプロだったそうです。ちょっと驚きでしょう。

その頃のCRCには伊藤忠や第一勧銀、国鉄(まだ国鉄でした)、清水建設からの出向者がいて、そんな人達とよく神田で飲みました。ある時おでん屋でかなり飲んでしまって翌日二日酔いで1時間遅刻をしました。プロパーの課長に飲みすぎて遅れてすみませんと伝えたら、「ああ良いよ」位でしたが、一緒に飲んだ5歳年上の第一勧銀の出向者から「二日酔いで遅刻なんて社会人として絶対許されないことだぞ。CRCは甘いからいいけど、今後は気をつけるように!」と叱られたのを覚えています。うちにもこういうお小言をくれる先輩が必要なのかもしれませんね。ちなみにこの人は今、みずほキャピタルにいて今でも時々飲んでいます。

1年ほど計量モデルをやって、これは自分には合わないなあと感じていた頃に、清水建設から来ていた先輩と飲みました。「計量モデルは自分には合わない」と愚痴っていたら、それならこっちに来たらどうだ、マーケティングや海外調査もあるからお前に向いているんじゃないかということになり、上司に掛け合ってくれました。その工作がうまく行って2年目には計量モデルチームを無事脱出して、産業調査チームに移りました。ここがマーケティングリサーチという仕事の出会いです。

考えてみると自分の人生は神田の飲み屋で方向性が決まったようなものです。この頃神田で飲んでいた人達とはほとんど今でもお付き合いしていて、色々と助けてもらっています。やっぱり若い時のノミニケーションや人間関係は大切なのかもしれませんね。

2007年4月 8日 (日)

リサーチャーとの出会い

社内ブログを始めるとは言ったものの、何から書いたら良いか分かりませんので、まず私の仕事の経験や会社が出来た経緯あたりから始めようと思います。あまり華々しい経歴でもかっこよい職業選択でもないので、ぜんぜんつまらないかもしれませんが、ああこうしてこの会社ができたのかという感じで聞いて下さい。

私は大学で筑波大学の農林学類、生物生産組織学専攻を卒業しました。理系と文系の中間みたいなところで生物学から経済学まで適当に勉強できました。筑波大学も出来て5年目で筑波学園都市全体が工事現場みたいなところで、雨の日に女子大生が長靴とジャージで通学してくるところを見てかなりショックを受けたのを覚えています。

クラブは「野生動物研究会」で真夜中に筑波山を登ってイノシシを見に行ったりと、けっこう田舎でワイルドな生活を送りました。いつも採用面接では偉そうに「マーケティングの知識は?、リサーチの経験はあるの?」なんて言ってますが、実は私自身は全然マーケティングやリサーチなんか勉強していないんです。

卒業時は真面目に社会に貢献したい、日本の食糧問題に取組みたいと考えて、国家公務員上級試験を受けて農林水産省に入ることにしました。半年ほど勉強して1次試験は無事受かったのですが、8割通るという小論文と面接の2次試験に何故か落ちてしまい大ショック。自信家の自分が始めて味わう挫折でした。そんな訳で私の社会人は挫折と迷走からスタートしました。ただ今から考えると自分は官僚組織には向かないので、あの時落ちて良かったと思っています。

その後は取りあえず就職はしたものの何か違和感があって身が入らず、しばらく旅に出て仕事って何か、どんな職業であれば真剣に取り決めるかを考えましたが答えはでませんでした。それで自分は何に強いか、何をしている時に楽しいかと考えて「企画力」という軸を選び、自分の企画力が活かせそうな仕事がないかという視点で見つけたのが、リクルート、ソフトバンク、東洋情報システム、センチュリリサーチセンタの4社でした。

私はまだ25歳で元気が良かったためか4社とも内定をもらいました。その時に1番つまらない会社と思ったのが「ソフトバンク」でした。その時のソフトバンクはまだ社員が70人位で、PC雑誌の出版とパッケージソフトの販売の会社で、企画営業職という職種でしたがライトバンで小売店を回ってPC88のゲームソフトを売る仕事でした。ちょうど孫さんが体を壊して社長を引退していた時で、ピンチヒッターの社長とも会いましたけど、全く面白みが感じられない会社でした。あの時に孫さんが社長で、熱く仕事を語ってくれたら22年前のソフトバンクに入って、今頃は孫さんの小指位にはなれたのでは・・・?と思います。人生は本当に分かりません。

最初に行こうと思ったのはリクルート、まだリクルート事件前で銀座8丁目のあのきらきらしたビルが建ったばかりで、電通を抜かすぞ!と飛ぶ鳥落とす勢いでした。今でも覚えているのですが内定したら人事部長が新橋の料亭に連れて行ってくれて「ふぐのコース」をご馳走になりました。銀座のビルには若くて可愛い女性も多くすごくいい会社だなあと思って、是非お世話になろうと思いました。しかし、料亭で自分が企画営業を担当するという「住宅情報」をもらってずっと見ていたら、この仕事って企画力勝負なんだろうか、自分が興味を持って取組めるだろうかと思ったら急に覚めてしまい断ってしまいました。ふぐのただ食い今でも申し訳なく思ってます。

残ったのがセンチュリリサーチセンタ(後のCRC総合研究所)でした。リクルートと比べてCRC総研は日本橋本町の小津本館ビルという古いビルにある地味な会社でしたが、何となく情報そのものを扱う仕事は自由度が高そうで、自分の企画力や行動力で色々できそうな仕事だと思いました。ここではじめて「リサーチャー」という職種と、シンクタンクという業種の存在を知りました。何となく頭で勝負するシンクタンクはかっこいいというイメージもありましたし、またCRC総研の社員は地味ですが真面目そうで、誠実な感じがしたこともプラスに働いて、まあここで良いか位の気持ちで入社しました。

配属先は「計量モデル」を構築してシミュレーションを行う部署で、朝から晩までコンピュータとデータの睨めっこ。「企画力」というより「忍耐力」ばかり求められる仕事で、訳の分からない経済統計でデータファイルを作り重回帰分析をやって回帰式を作り連立方程式を解く毎日です。うまく結果が出ないと2日位連続で会社に泊まって徹夜でコンピュータを動かしていました。その時はやっぱり銀座のリクルートだったかなあと後悔しました。

本当に人生は分かりません。迷いと選択と後悔の連続のような気がします。